どうも僕です
🥋( ˙-˙ )🦵
岩もぐら (@ippatuyamogura) / Twitter
今回は空手語りということで、岩手県の生んだ伝説的空手家
金澤弘和 先生(1931〜2019)
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の現役時代の頃のエピソードについてお話したいと思います
結論から言いますと
腕骨折した状態で足技だけで大会で優勝してます
🥋さて、経緯🔥(´・∀・`)🥋
【第1回全日本空手道選手権大会】
時は1957年(昭和32年)
金澤先生は拓殖大学を卒業し
(社)日本空手協会 第一期甲種研修生
つまりプロの空手家として、自身の授業や各大学の指導
そして協会の業務に明け暮れておられました
そんな折、日本空手協会が主催する
第1回全国空手道選手権大会
が上記の年の10月20日に千駄ヶ谷の東京体育館で行われることとなったのです
当然、金澤先生も意気揚々と出場する運びとなりました👊
金澤先生は、大会目指して精力的に稽古をこなし
そして大会まで後4日に迫った日
母校である拓殖大学空手部にて最終調整を図っておられました
そして、出来事はその時に起こります⚠️
【手、折れた⚠️】
⇧の通りです
金澤先生、右手骨折
右手の指から甲の奥に至るまでガッツリやっちゃったらしいです
ことの発端は、金澤先生がその日調整を終えて帰ろうとしたのを
とあるOB(金澤先生はその方の名前を明かしていませんが)が呼び止めて
現役の学生たちとの自由組手をけしかけたそうなんです
そして、その流れで不運にもやってしまった…と
ハッキリ言いましょう
そのOBのやつ、おめぇ何してくれてんのよ
💀(´・∀・`)💢🖕
それで金澤先生…三角巾で右手吊りながら
その日のうちに中山正敏主席師範に報告して大会出場無しになった…と
(中山主席師範も半ばキレ気味だったとのこと💦)
すかす(しかし)‼️
【お母様上京】
凹んでいる金澤先生のもと、岩泉町の小本から
お母様の増枝さんが、金澤先生の姪っ子さんを伴って訪ねて来られました
金澤先生、寝耳に水
〔↓以降(弘)→金澤弘和先生
(増)→お母様の増枝さん〕
(弘)「お袋さん、何しにきたんです?(´⊙ω⊙`)」
(増)「あんたの試合、見に来たのよ🥋」
(弘)「僕、右手折れてるから出れません(´・ω・)」
(増)「なんで?(´・ω・`)」
(弘)「なんでって…💦」
金澤先生は戸惑いました、お母様の増枝さんは続けます
(増)「カラテって、右手だけでやるものなの?」
(弘)「いや、空手は足も使うし、肘も使うし…」
(増)「あら、それなら試合出れるじゃない⭐️」
(弘)「…そりゃそうだ☀️(´・ω・)」
という流れで、金澤先生は
「お袋さんがそう言ってまして、自分もそうだと思うんで、やっぱり試合出ていいですか?」
旨、上層部の師範たちに報告したら
⭐️師範たち感動⭐️
🌠( ;∀;)💦💐🌠
OKサイン出たそうで、そして予定通り試合出場
【回し蹴りだよ!!おっかさん⭐️】
そうと決まればエンジンに火がついた金澤先生
1回戦〜決勝戦(5回戦)までを
全部蹴り技で勝ち進み
しかも決勝はハイキック(上段回し蹴り)決めての優勝となりました
えげつないです
小本からやってきたお母様や姪っ子さんにチャンピオンの晴れ姿を見せることができた…だけではなく
金澤先生この大会での試合を通して
相手の呼吸や精神の動きを目を見ることを通して把握し
純粋に空手の技の応酬を楽しむ…という境地にまで達したとのことで
うん…本当に変わってますね🪐(´・∀・`)※良い意味です
その後金澤先生は、世界各国を空手の指導をして周り
「SENSEI・KANAZAWA」
の呼び名で広く知られ
国際松濤館空手道連盟
を立ち上げることになるのですが、それはまた別の機会に皆様にお話ししたいと思います
最後まで読んでいただき、ありがとうございました
今回はこの辺で
押忍🥋( ˙-˙ )⭐️
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